【温泉を格安で楽しむ方法-500分の1ぐらいの値段で-】
これは無理だ。一泊の温泉で、牛丼何回食べられるんだよってくらい高いんですよね。
横浜の万葉の湯とかも調べたんですけど、恐ろしい値段でした。
これは無理だあ、と思っていたんですけど、クリスマスがありましたよね。
そのとき「はいっ!」って妻がくれたんです。
温泉の素。
10回分、日本全国の温泉が楽しめて、500円ですよ。
もうね、ああ、この手があったかと。
200倍ぐらい値段ちがうんじゃんかということで、とても賢い選択だなと思ったのです。
年末倒れちゃったからいまいち楽しめなかったのですけど、やっと楽しめるようになってきました。
これで、温泉入った気持ちになりながら、お風呂の中にタブレットを持ち込んで(注1)、音楽聴きながらネットをみるのがね。
もう至福ですよ。
温泉行くったって車運転でもすることになったら、事故っちゃうリスクもありますね。
考えもしなかったなあ。
注1 ジップロック袋に入れて使えば壊れない。たぶん。
(執筆7分)
日本の名湯 源泉の愉しみ 30g 10包入り 入浴剤 (医薬部外品)
- 出版社/メーカー: バスクリン
- メディア: ヘルスケア&ケア用品
【とにかくかたづける。】
部屋が散らかっている。特に本が山積みで度々雪崩を起こす。
平積みしておくと、必要な本が最下層に置かれていることもあって、
そんなときは慎重に慎重に本を引き出そうとするのだが、
失敗に終わるのである。
・・・
本をかたすためには部屋を片さないといけない、部屋をかたすためには、自分が書斎に使っている3F全室を片付けないければならない(なぜなら、本があちこちに散らばっているから)
そもそもそういう状況になってしまったのは寝室が散らかっているから、それを片付けないければならない。棚だ、棚が必要だ、とにかく、本を探すのが嫌なんだよ。もうとにかくうちわは捨てよう。
・・・
同時に、キッチンを片付けている。もうね、きれいなキッチンで料理したいし、効率的に料理したい。
キッチンは第二の職場だと思っている。ちょっとしたものを買い揃え、そして、料理から、洗いものまでをスムーズにこなすための環境整備を苦心している。ふきんをどうするかどか、ふきんをかわかすためにどうするかとか、キッチンペーパーをどうするか、包丁立てをどうするかとか、まな板立てをどうするかとか、タオル掛けをどうするかとか、エプロンをどうするかとか、フライ返しなどをどこに置くかとか、そういった配置などにも適当では済ませたくない。
・・・
というわけで、そんなことばかりしている。でも、これが大事なのだ。システムを根本的に変えないと、基本的にルーチンも非効率のままになってしまう。ここで頭を悩ませることできっと、劇的とはいかないまでも、それなりな効果がでるんじゃないか。
そして、そいうところで、それぞれの家庭がどのようにしているのか気になるのだ。
・・・
以上。(執筆4分)
ラフマニノフの聞きながら。
【2016年振り返り:「ストレスとジレンマと嫉妬にまみれた一年」】
妻のとこは好きだし、息子のことも好きなんだが、
致し方ないとはいえ家事育児に時間を吸い取られるように日々を過ごさなくてはならないのはとてつもないストレスであり、ジレンマだった。そして、それに終わりはないのである。
これで、自分の追求する仕事(研究)で成果を挙げるのは到底不可能だ(というとすべてが終わってしまう)。
もう、心が砕けそう・・・
女性で仕事中心に生きていた人が結婚を期に家事育児で振りまわされる状況の人とやけに共感できてしまう。
「こんなことをするために生きてきたわけではない」という思いはどうしよもない黒い塊となってごろんごろんと自らの心のなかでころがるのである。
2.家事育児を仕事化する研究対象化する
といっていても仕方がない。(とわかっていても愚痴りたくなるし、叫びたくなる。)
育児に関して、医療ケア児とともに生活する男性の研究者という位置は極めてニッチということで、
この生活世界で起こるよしなしごとは博論が終わったらまとめて書き綴っていこうと思っています。
といっても、エッセイのようなものにしかならないような気もするけど、、、発表できること、できないこともあるけど、
まあ、何かしら書いてまとめてみます。
そして、家事の方は仕事(研究)として見たときにどうなのか・・・と考えるように意識的にしている。
そして、すこしでも良いものになるように(スピードをあげられるように、効率化できるように)日々考えている。
1つのタスクで、10分削れれば、その10分は一週間で一時間分だ!(何言っているの?私????)
そう考えると、いろいろと分かることがある。
料理は極めてクリエイティブで面白い。男性がはまる要因がいくつもあるように感じる。
このあたりは別途書き出すことにする。
3.嫉妬にまみれた生活
・・・正直言うと、仕事している人が羨ましい。存分に働けている人が羨ましい。悔しくて仕方がないです。
(そして、働きたくない、めんどくさいとかいう類の適当な人間が心から許せないのです。)
私はもはやそれが無理なんですよね。そう、それができない。ぶつ切りの時間しか手にすることができない。
FBって嫉妬の醸成装置なんだな、とよくよく思います。自分にないものを持っている人間を見つけて、
「ああ、いいなあ」とそういう感情を引き起こす装置。
もちろん、情報をあれこれ拾えることもあるんですけど、
基本的に自分が心の狭い人間なので、人のことを素直に祝えないんですよね。なんと捻くれているのか。。。
でも、そういう沼田を羨む対象として見ている人間もまたいるわけなんですね。不思議なことに。超必死でぜえぜえいいながら生きているんですけど。
結局、FBであっても自分の一部を切り取って見せる(見えている)だけですからね、それはよくよくわかっているんですけどねえ。
で、結局自分の「嫉妬心」を丸め込んで、あやふやにするより、燃え上がらせて、エネルギーに変えた方が良いな、健康に良いなと思うようになりました。なんて幼稚なんだと思われるかもしれないけど、これをエネルギーにして、「負けねえぞ!」とするしか、いまのところ自分の心の置き場所がないんですよね。何と戦っているのか自分でもよくわかりません。
4.矯正と改善には科学の力を最大限利用(具体的には「校正」問題)
具体的には誤字脱字が多く、パソコン利用開始時よりいっつも間違えている。間違えを再発見する力が乏しいのですよね
で、いままでなんども矯正しようと思ってきました。でもそのたびに挫折を繰り返してきました。重要なレポートを執筆する上で、極めて問題なんですよね、、、はあ、なんでだろ。すっっごく落ち込むことばかりです。もう、諦めて全面的に科学技術を使って解決しようかと。
もうその路線に舵を切るのが一番ですね。治らないものは治らない。治らないものを治そうとするのではなく、治らないものを何を使ってどのようにサポートするか、そういうふうに考えたほうが気が楽ですよね。そういうのを外注ともいえますけど、自分でどんなに頑張っても投下する力、時間に対しての見返りが予想を下回ると、本当に挫けそうになるんですよね。弱っているときは特に。校正ソフトとサービスを駆使しよう。。。
5.英語どうする?
別項で。
6.その他
やり遂げたものもあった。でも、もっとやれた、もっといいものにできた、そういう思いばかりが自分を支配します。
貪欲といえば貪欲、詰めが甘いといえば、詰めが甘い、もっと、自分はできるはずだ、という信念だけはあるのです。
おかしなことに、そういう意味では自分にやけに自信があるんですよね、もっとやれるはずだ!と。
なぜだかよくわかりません。
そして、これらを踏まえて2017年の沼田が掲げる3つのキーワードにつながります。
【2016年 沼田が読んだ絵本ベスト5】
素敵な絵本があったら教えてください!
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5『きんぎょがにげた』1982,五味太郎
五味太郎さんを絵本好きで知らない人はいないでしょう・・・
私もそれほど多く読んでいる方ではないです。ただ、この本は本当によいのです。
これ、タイトルが「金魚が逃げた」なんですけど、内容は最後まで読むとちょっと違うんですね。
実は友達を見つけたくて、1人でいるのが嫌で、逃げ出した金魚の話なんです。
「きんぎょがにげた」「またにげた」みたいな簡単な日本語しか使っていないのですけど、
最後の絵までみると、実は、友達を、そして、恋人探しに行ったのかも、と思うわけです。
だから「仲間を探しに」とかなんですね。きっと。
1人が寂しくって、窓から飛び出していく金魚のことを考えると、ちょっとほろっとするんですよね。
4『あめのむこう』2009,水野翠
雨の向こう側ってどうなっているんだろう?
そんなふうに子ども心に思ったことありませんか?
私はあります。
特に台風とか、ワクワクしちゃって、暴風雨の中、黄色い傘をもって外に出て、
びしょ濡れになり、傘を壊して帰ってきては怒られるという典型的なアホ男子だったわけです。
この物語はもっとほっこりしています。
動物たちが「あめのむこう」に歩いていきます。
ワニさんが仲間を増やしながら歩いていきます。
読んでいると気づくのですが、動物たちがしりとり順になっているんです。
最初わからないんですよね、、、こういう小ネタに。。。
同じ水野翠さんで、「わらってわにさん」という絵本もとっても素晴らしいです。
この二冊はどうも作者が横浜旭区の方らしいということで、会ってみたいものだ。。。
また、漫画で『よつばと!』という漫画があります。この漫画で「たいふう」の話があるのですが、
これと自分の記憶とつながってきます。こっちは大笑い。
3『パパ、お月さまとって!』エリック・カール,もりひさし(訳),1986
エリック・カールといえば『はらぺこあおむし』ですけれど、
こちらのほうが個人的には好きです。
なぜかというと、主人公がパパと娘だからです!(うちは息子だが)
パパが主人公の絵本はママが絵本の主人公の絵本と比べて圧倒的にすくないです。
(これはジェンダー研究でも盛んにやっているでしょうが)
そんななか、エリック・カールはやってくれました。ただの親ばかの物語ですけれども、
こんなにロマンチックに描いてしまうところが絵本作家ですね。
可愛い娘から「お月さまとってきて!」と言われてらどうしましょう?
その答えはここにあります。
娘がいたら、絶対に読むべし。
とってもシンプルなのですが、
夜空の描き方と梯子とちょっとした仕掛けがとっても素敵です。
ちなみに、このお月さまは、『はらぺこあおむし』でも登場してきますね。
梯子を持ったパパの絵はポストカードで売っていないのか、スキャンして取り込もうかと悩むぐらい絵が素敵です。
2『おおきなかぶ』A・トルストイ再話,内田莉莎子(訳) ,佐藤忠良(画),1966
知らない人はいないぐらい有名な絵本ですね。
やっぱり素晴らしいです。
個人的に好きなところは、株を植えてから、大きくなる過程をすっぽりすっ飛ばしているところですね。
「おいおい!そこはどうなった!?」と突っ込みたくなるのですが、
とにかくよくわからない力(?)で大きくなります。
そして、仲間を増やしながら株を抜こうとみんなで頑張るわけです。
で、このときの「うんとこしょ どっこいしょ」「それでもかぶはぬけません」の繰り返しが、
リズミカルで気持ち良いのです。
物語はかぶを抜いて終わり・・・そのかぶはどうなったんだろう・・・と考えるのも楽しいです。
おじいさんが独り占めしたのか、均等に山分けしたのか、それとも領主にでも持って行かれたか。。。
これ、私はソリダリティ(連帯)の話かなって思うのです。
かぶっていうのは、帝政ロシアの巨大な何か、権力の象徴でしょうか?それを打倒するために力を合わせる・・・というメタファーなのかな、と思いました。(なんの根拠もありません)日々の生活では反目し合うおじいさん、おばあさん、まご、いぬ、ねこ、ねずみが利害関係を越えて巨悪(?)に対抗し打ち倒す・・・という物語なのかしら?と考えると非常に可笑しく感じます。ちなみに、おかあさんとおとうさんはどこに行ってしまったの?とか、いろいろ疑問がわき、ちょっと描かれないところにまた、なにかあるのかもしれないと物語の深さを勝手に感じています。
1『はじめてのおつかい』筒井頼子(作),林明子(絵),1977
超有名な絵本。年末年始などの特番でやっているテレビ番組なんかもこれが元ネタなんですよね。
さて、この本、とても素晴らしい本です。何が素晴らしいかというと、いくつかあります。
その1つが終わり方なんですね。
いままで読んできた絵本の中でその終わり方は特に秀逸です。
この物語は、5歳のみいちゃんがはじめてのおつかいに家から出発して、
帰ってくるところまでの物語です。
しかしながら、実際には物語は家にかえる途中で終わってしまうのです。
どういうことかというと、家にかえる途中にお母さんと合流して物語が終わるのです。
お母さんが家で待っていられず、迎えに来てしまうんですね。
初めて読んだときは「え、ここで終わるの?」と思いました。中途半端なんですね。
でも、よくよく考えると、この物語は子どもが「はじめてのおつかい」に出発する物語でもあると同時に、
お母さんが子どもに対して「はじめてのおつかい」を頼む物語なのですね。
最初と最後でしか登場しないお母さんですが、子どもがおつかいに出かけているときのお母さんの様子を思うと2つの時間軸があることがわかります。主人公はおつかいに行くみいちゃんです。でも、裏の主人公はお使いをお願いし、家で待っているお母さんなのですね。その2つの時間が再び一つになって物語が終わるのです。だから、物語を読みながら、「このときはお母さんは何をしているのだろう?どんな気持ちなんだろう?」と考えるととっても味わい深い作品です。傑作ですね。
そしてもう1つ、それは女の子を描く画力ですね。女の子の重心を描くのがすごく上手なんですよね。画力まったくない沼田ですが、なぜこんなに上手に感じるのか・・・ちょっと壁により掛かる、ちょと怯えている、大声で叫んでいる、、、といいったそれぞれの場面での子どもの切り取りかた、絵でみせる体の重心のかかり方がすごく上手に描けていて、臨場感があります。
他にもいろいろと仕掛けがあって面白いです。名作ですね。
【ぜえぜえ、なんとか蘇った・・・】
・その後、ほとんど一睡もできず・・・胃痛、頭痛、寒気、腹痛などの様々な症状を併発して、ベッドからほとんど身動きが取れず、一日唸り続けることになりました。。。なんという年末。胃腸炎ですかね?まじやばかった。
・あんまり苦しくって、風邪薬を多めに飲んで眠ることには成功したものの、いくつもの世界線を越えて、現実に戻ってこれなくなり、、、まじで戻ってこれないかと思った。夢の中で夢をみるという不思議な体験とその夢がいくつもの世界線を飛び越えて、過去の自分と向き合い続けるという、、、(『シュタインズゲート』参照)目を覚ますことができたとき、「は、戻ってこれた・・・」という安堵感。そして、今、ここ?どこ?感がやばかった。
・さて、そんなわけで、いまだ完全復活できず、フラフラしておりますが、(家のあれこれはそんなことお構いなしだ)生きている時間を噛み締めて大晦日です。
・えっと、予定を大幅に変更して年末年始を過ごします。大反省会をしなくちゃね。猛烈にキーボードを叩きます。
【FISHMANS TOUR "LONG SEASON 2016" レビュー】[2016年7月14日 (木) 東京・Zepp Tokyo]
しかしこのライブはどのように位置づけたら良いのか。
11年間で大きく変わってしまった。
それがこのライブで感じた自分の一番の感想だ。
なにが変わったのか。
2005年のツアーはさまざまなゲストボーカルを迎えての
フィッシュマンズ再始動という意味合いが強かった。
そもそも佐藤伸治の死はフィッシュマンズの事実上の解散であり、
その音楽が再現されることはありえないと思っていた。
しかし、その死を乗り越えて、フィッシュマンズは彷徨い泳ぎ続けて、新たな仲間たちと戻ってきた。
2005年のゲストボーカルによって音楽を再編する、新しいフィッシュマンズのスタイルはこの時確立したのだった。
佐藤伸治の代わりはだれにもできないことはわかっていても、
フィッシュマンズを愛好する人々の群れによって、再び蘇る「或るフィッシュマンズ」の物語であった。
それはとてもワクワクするもので、「始まりの音楽」だった。
しかし、今回のライブは「喪失の音楽」もしくはレクイエムのようだった。
それは、たびたび茂木欣一が佐藤伸治について触れていたことと、
茂木欣一自身がメインボーカルを務める楽曲が多かったことにある。
原田郁子はあくまでサポートボーカルで、メインボーカルの位置にいなかった。
これは賛否があるだろう。
彼女の歌う「エブリデイ・エブリナイト」は最高だったが、
すべての楽曲を原田郁子が歌うのはやっぱり違和感がある。
それは、茂木欣一が歌っても同じことだった。
というのは11年間、自分が繰り返し聴いていたのは佐藤伸治ボーカルのフィッシュマンズであり、
私個人の楽曲イメージがそこで固定されてしまったことに原因があるのだろう。
私の中で完成し、完結したフィッシュマンズは、ライブでは再現されないのだった。当たり前だ。
11年という年月はやはり、それなりの時間だった。結構な頻度でフィッシュマンズを聞いていた自分にとっては、佐藤伸治以外のボーカルはやっぱり「違う」と拒否したくなる思いがこみ上げてしまう。
そんなふうに強く感じたライブであった。
茂木欣一が一曲ぐらい歌うのはレクイエムとしてありかもしれないが、やっぱり、茂木欣一はドラムなのだ。
フィッシュマンズのリズム隊がボーカルをやるのはとっても違和感があった。
じゃあ、ライブはひどいものだったのかというと、
ライブはとても気持ち良いものだったし、それはそれで最高だったのだ。
「ひこうき」なんかはデビュー曲とは思えない古びない良さがあった。
予想通り「Long Season」をやりきっていた。
こんなライブのセットリストはないだろうという感じが、
まさにフィッシュマンズだと思う。
最初は二階にいたのだが、我慢しきれず一階に降り、
アンコールの「チャンス」なんかは、スタンド席のかなりの前の方で身体を揺らして酔いしれた。
ただし、この音楽に未来はあるのだろうか・・・と心配になってしまった。
「フィッシュマンズ+」の動きなんかはとっても前向きにとらえていて、
「やくしまるえつこ」とのコラボなんて、らしいなと思っていたし、神聖かまってちゃんの「の子」とのコラボも
ありだと思ったし、サカナクションとの対バンも面白いと思ったのだけれど、この単独ライブはどこへ向かっているのか、
心配になってしまった。
これなら、2005年のスタイルでゲストボーカルをあちこちから引っ張って様々に解釈された
フィッシュマンズを届けるでもよかったのではないか・・・それはそれで聞きたかったのに。
もっと聞きたい曲がたくさんあったが、さすがに「Long Season」をやってしまったら、時間がなくなってしまう。
それはもう仕方がない。
なんだろう、もやもやが残ってしまって、結局、家に帰って、フィッシュマンズのCDを聞いてしまうのだ。
「男たちの別れ」の出来があまりに良すぎて、これを再現されることはないとわかっているのに。
すごくよかった、でもなんだか寂しくなった。そんなライブだった。
~~~
関連記事
FISHMANS presents "THE LONG SEASON REVUE" 05.11.25 ダイアモンドホール レビュー
http://numa0806.blog.so-net.ne.jp/2005-11-25-1
Fishmans 98.12.28 男たちの別れ(紙ジャケット仕様)(フィッシュマンズと私:沼田真一ライナーノーツ)
http://numa0806.blog.so-net.ne.jp/2009-04-26
【マジカルミライ2015振り返り:「ボカロ・ネイティブ」の登場へ】
・結果、とっても良くて、アンコールの「ハジメテノオト」でなぜゆえか涙を流すほどに感動したのだけれど、映像は仕方がないにしても全体の音のバランスは個人的にはとても残念で、やっぱり一つの楽器としてのボーカロイドと考えてしまうと、どうしても響きが違いすぎて調整が難しいのかもしれないな、、、と冷めてしまう自分もいた。やっぱり、昨年の初めての体験があまりにも衝撃的だったので。
・といっても、やっぱり後半に向かって良曲が続いて、最後は本当によかったなあ、他のクラシックやジャズやロックやどのライブとも違う感動があるんだよなあ。
・で、それはなんなのだろうかと考えていたのだけど、次のようなことが思い当たる。①初音ミクという「人格」まで内包した楽曲の存在 ②市民参加型(という表現は微妙だが)で完成するライブ(楽曲そのものが一市民の提供)③技術の可能性とそれが現実社会を変容させる力をもつことの具体としての初音ミク 特に、①なのだが、「ODDS&ENDS」や「package」や「Tell your world」や「ハジメテノオト」なんかは特に、歌の歌詞そのものが、ミクが自分自身で歌うことの意味や価値、意志、喜び、苦しみ、そういったことを歌い上げる(そして、そこには間違いなく作り手のボカロpの思いが込められている)のがなんか心にきちゃうんである。それは音楽にかぎらず「クリエイター」として存在する全て人を代弁しているようにも思える。決して持ちえるはずのないボーカロイドという楽器(もしくは、作品)が意志を持つとして、こんなふうに思いを語るのかもしれないと想像力をふくらませ、それが膨張し、ライブ会場にいるお客さん同士で創発させていくその思いが、最高潮に達してなぜゆえか涙する、、、そういうことなのだろうか、と振り返ってみる。
・そして、あらためて、演奏された楽曲を動画でみているとニコニコ動画なんかでは、「小学生低学年だった」「子守唄だった」というコメントもあり、初音ミクが8周年ということで、そろそろボカロネイティブなPが現れて、音楽シーンを劇的に変えていくかもしれないと思うと、それはそれはワクワクする自分がいる。
初音ミク マジカルミライ2013 限定版 [Blu-ray]
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初音ミク「マジカルミライ 2014」in OSAKA【完全生産限定版】 [Blu-ray]
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- 発売日: 2015
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初音ミク「マジカルミライ 2015」in 日本武道館(Blu-ray限定盤)
- 出版社/メーカー: Victor Entertainment,Inc.(V)(D)
- メディア: Blu-ray
【ダブルケアのフューチャーセッションの振り返りメモ】
●男女協働参画という文脈での「連れ合い」
・男女共同参画という文脈の中で実施されていたため、自分の妻や夫を「連れ合い」と表現していた。ここで「主人」や「嫁」という表現がでてきたらやっぱり問題になる。でも「パートナー」という呼び方はしないのだな、と思った(自分も妻のことを「パートナー」とは呼ばないのだが・・・)。「互いを『パートナー』と呼ぶことが、男女共同参画に適している」とある担当者が語っていたことを思い出した(「でも、ちょっと違いますよね?」と加えて呟いていたが・・・)。言葉を選択することは難しい。言葉が知らず知らずのうちにに世界を作り上げてしまう。
●そもそも「ダブルケア」とは
・自分は「ダブルケア」とは「家族内で介護が2つ同時に進行している状況」(※1)と考えていた。たとえば、障害を持つ子どもの介護と高齢で要介護になった親の介護が同時に進行する場合が考えられる。これは本当に大変なことだろうと思うし、なんとかならんものなのかと思っている。しかしながら、この「ダブルケア」は、「ケア」という言葉を拡大解釈して使われていた。すなわち「(主に親の)介護」と「子育て」の「ダブル」という考え方が大きな枠組だった。つまり、「ケア」を「世話をする」という意味で解釈し、定義したのだ。しかし、これは少々強引なくくり方だなと思った。なぜなら、「子育て」はケアという概念に包括されてよいのか疑問だったからである。ただし、ダブルケアという概念で、「介護」と「子育て」の二つを同じテーブルに並べて議論をすることは重要だと思う。なぜなら、高齢出産が増えれば増えるほど、こうした状況に陥ってしまう人はかなり増えるからである。さらに、「介護」と「子育て」が支援として個別に対応がなされている状況下で、統合して対応しなければならない状況が当然起こりうるからである。だから、「ダブルケア」に対して公的制度や仕組みで対応することも当然必要になる。しかしながら、こうした制度や仕組みでも溢れてしまうところもある。そうなると、しわ寄せは現場が受ける。だから、困難を抱えた当事者を見過ごせない現場の疲弊は相当なものだということはよくわかる。制度や仕組みは当然必要だか、そこからこぼれ落ちてしまう人々がいることを前提にした制度設計・・・言葉にするのは簡単だがどうしたらよいんだろう。そういう未来を考えなきゃならない。自分なりに。
【最近の諸々をまとめてメモ】
ヒトカラ(一人でカラオケをする)の考察
ヒトカラ(一人でカラオケをする)の考察
1.背景と目的および方法
:近年、カラオケにおいてヒトカラ(一人でカラオケにいく)というスタイルが確立された。社交の場としてのカラオケではなく、気晴らし、ストレス発散の場としてのヒトカラはどのようなスタイルとして行われているのだろうか。筆者はアクション・リサーチとして実際にヒトカラを行うことで、その特徴および気づき発見などを言語化し、その体験から考察を行う。
2.ヒトカラの概要:
「ヒトカラ」の実施は3月下旬某日、場所は横浜の某所である。カラオケボックスを経営する大手企業のひとつであるビックボックスで行われた。時間は17:00から18:00の一時間であり、ワンドリンク制を採用した。カラオケの機種は指定できず、DAMシステムであった。部屋の大きさはおおよそ15平米。二人がけのソファーがあり、二つのマイク、選曲のためのタッチパネル式のリモコンが装備されていた。照明は調整不可能なスイッチ型であり、明るさは室内の照明としては暗いほうであろう(※1)。リモコン上でアーティスト検索を行い、選曲を行う。この際に、映像が実際のアーティストのPV映像となっている楽曲も多く、また、アーティスト別の人気ランキグなど、多様なフィルターによって選曲を補助するシステムが備えられている。一曲目を決定し、この楽曲を歌い終わると、次の楽曲の選曲する。こうして、入力、検索、歌唱、入力、と繰り返して、一時間を過ごす。一時間に達する10分前になるとスタッフが扉を開けて、「10分まえになりました」と告げる。筆者は「あと30分延長してください」と告げて、実際には一時間半をカラオケボックスで過ごした。
3.考察
いくつかの点からヒトカラを考察し、その特徴を論じる。
① 創発的楽曲選択の欠落
一人でカラオケをするにあたって、自分の歌いたい曲を歌うこと以上の選択肢は存在しない。つまり、「みんなで盛り上がる」とか「みんなが知っている」とかそうした他者との関係を一切考慮せずに選曲することはある種のストレスとなっていた部分を排除する。しかしながら、他者の存在そのものが、自分の選曲に影響を与えているという事実を強く感じることとなった。タッチパネル式の楽曲検索と選曲システムは、旧来のブック型よりも多くの機能を実装することで、歌い手の選曲を補助するようでありながら、実際のヒトカラでは、何を歌ってよいかしばしばわからなくなり、時間を無為に過ごしてしまった。(特に延長しておきながら、何を歌っていいかよくわからなくなり、時間だけが過ぎてゆく妙な焦りを感じる時間が10分程度生まれてしまった)他者の選曲が自分の選曲に大きな影響を与えており、また、同様のことが他者にも起こる創発的な関係にこそ、カラオケの娯楽としての価値を強く感じている自身について発見があった。つまり、「●●さんが■■を歌うなら、自分は▲▲を歌おう」「■■を歌うのか、なら、テーマを連動させて▲▲」を歌おうといった応答がカラオケの選曲に大きな影響を与えており、それもカラオケの面白さの1つではないかという発見であった。
② ランキングプログラムによる共時性と競争
予想以上に自分の中で高揚感があったのは、オンライン上での採点システムで同曲を歌唱中の人々とのランキングバトルであった。同じタイミングで同じ曲を歌っている人々とリアルタイムで順位が変動し、表示されるシステムは、ヒトカラの特徴である「ひとりでカラオケ」という状況を溶解し、闘争心に火をつける。しかし、個人的な結果としては、どの楽曲でも中位であり、自分の歌唱力の限界と位置づけを改めて確認することにもなり、純粋に「上手になりたい、上手に歌いたい」という願望をある程度呼び起こしながらも、それが困難であることを自覚するに至った。
③ 入店と退室、および延長時におけるためらい
ひとりでカラオケに行くという行為は自分が楽器の練習を行うなどの特定の条件を求める利用者以外にとっては、とても気恥ずかしいことのように感じ、入店そして、退室時の精算では、気まずさを感じてしまう。これは慣れかも知れず、20代の他者の目を気にする世代にとっては、自分以上にハードルの高いことなのではないだろうか、と感じた。ヒトカラは30代ではノーマルな行為ではない)
④ アレンジなどのカラオケ音源の貧弱さ
ヒトカラの特徴ではないが、カラオケ音源やアレンジが原曲とくらべてあまりにも貧弱で、気持よく歌えないという楽曲がいくつかあった。打ち込み音源の限界で、全く別の曲のように聞こえてしまうものもあった。これも年々良くなっているように思うが、まだまだなものも多いと感じた。
4.まとめと今後について
ヒトカラがどのような特徴を持つものが実際に体験してみることからいくつからの気付きと発見を得た。創発的関係を基盤とし、社交の場としての前提を持つ筆者にとっては、なんとも間の持たない、面白みの欠ける楽しみ方であった。あらためて、カラオケが相互行為を前提とした社会の縮図ではないだろうかというような思考を巡らす機会となった。しかしながら、オンライン上の採点システムによって、他者との競争が可能になり、「一人」であることの前提のある「ヒトカラ」が多くの人とつながり、ゲーム性などを向上させていることは非常に興味深いものであった。こうした体験を踏まえ、複数人でおとずれる従来型のカラオケを実施することで、比較分析したい。また、料金に関して、空間との関係、選曲された楽曲の記録などから、関係性や状況の変化を観察し、さらなる考察を加えたい。また、楽曲提供のサービスなどをDAMシステムに採用されているものなどの積極的に利用などによって、ヒトカラのスタイルなどにも変化を加えて再度考察したい。