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【ダブルケアのフューチャーセッションの振り返りメモ】

・ここ最近いろいろと考えていることにリンクする部分が多くあった。

●男女協働参画という文脈での「連れ合い」
・男女共同参画という文脈の中で実施されていたため、自分の妻や夫を「連れ合い」と表現していた。ここで「主人」や「嫁」という表現がでてきたらやっぱり問題になる。でも「パートナー」という呼び方はしないのだな、と思った(自分も妻のことを「パートナー」とは呼ばないのだが・・・)。「互いを『パートナー』と呼ぶことが、男女共同参画に適している」とある担当者が語っていたことを思い出した(「でも、ちょっと違いますよね?」と加えて呟いていたが・・・)。言葉を選択することは難しい。言葉が知らず知らずのうちにに世界を作り上げてしまう。

●そもそも「ダブルケア」とは
・自分は「ダブルケア」とは「家族内で介護が2つ同時に進行している状況」(※1)と考えていた。たとえば、障害を持つ子どもの介護と高齢で要介護になった親の介護が同時に進行する場合が考えられる。これは本当に大変なことだろうと思うし、なんとかならんものなのかと思っている。しかしながら、この「ダブルケア」は、「ケア」という言葉を拡大解釈して使われていた。すなわち「(主に親の)介護」と「子育て」の「ダブル」という考え方が大きな枠組だった。つまり、「ケア」を「世話をする」という意味で解釈し、定義したのだ。しかし、これは少々強引なくくり方だなと思った。なぜなら、「子育て」はケアという概念に包括されてよいのか疑問だったからである。ただし、ダブルケアという概念で、「介護」と「子育て」の二つを同じテーブルに並べて議論をすることは重要だと思う。なぜなら、高齢出産が増えれば増えるほど、こうした状況に陥ってしまう人はかなり増えるからである。さらに、「介護」と「子育て」が支援として個別に対応がなされている状況下で、統合して対応しなければならない状況が当然起こりうるからである。だから、「ダブルケア」に対して公的制度や仕組みで対応することも当然必要になる。しかしながら、こうした制度や仕組みでも溢れてしまうところもある。そうなると、しわ寄せは現場が受ける。だから、困難を抱えた当事者を見過ごせない現場の疲弊は相当なものだということはよくわかる。制度や仕組みは当然必要だか、そこからこぼれ落ちてしまう人々がいることを前提にした制度設計・・・言葉にするのは簡単だがどうしたらよいんだろう。そういう未来を考えなきゃならない。自分なりに。
・(※1)と書いたがそもそも、「家族」のあり方も相当に多様化している。同性婚もそうだが、事実婚などもある。そもそも、人間以外だって「家族」だと考えることはできる。だから、余計にケアの問題は難しい。

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