「音楽の聴き方」 [読書]
さて、橫浜のイベント仲間の人から、同じくこの本を買い、その感想をぜひ、教えて欲しいとのことだったので、読み終えたところで、早速感想を書いてみたいと思う。
この人の専門は、音楽社会学なのだろうか?
音楽を理論として、書き綴りながらも、その社会におけるあり方、歴史を記述し、各論文を引用しながら、(この引用が絶妙)音楽について、論じていくあたりは非常にうまい。詩的な言葉を上手に拾っている。音楽と社会の関係については、論文などで読んだことがない沼田としては、この人の論述は非常に興味深く、勉強になった。
音楽と社会の関係を勉強したい人にはお薦めの本。
音楽の聴き方を知りたい、というよりも、音楽とはなんなのか、
を考えたい方が読むべきほんで、
「○○のCDは良いから是非、聞いてみましょう!」
という本ではないから注意。
付録として、音楽理論について知るため本が紹介されているので、
この本で興味を持てばそれを読んでみても良いと思う。
(筆者は、歴史と理論をしり、「自分の内なる図書館」を作らないと、音楽を語ることができないとのべているから、読む必要がやっぱりあるのだろう)
さて、
現代の音楽はその関わりを3つに分業してしまったとし、
「演ずる人」「聴く人」「評論する人」に分類している。
評論するのには、「言葉」(内なる図書館)が必要となり、
その言葉は、直接的、絵画的、身体的に語る事になるだろうというわけだ。これは、名指揮者のリハーサル風景をみてほしいとのこと。
彼は音楽は意味を探るため、他者を捜すためにあると考えており、
意味、つまり、それを語ることは、「わかる」ことであり、分かち合う事につながると考えている。
他にも五線譜は「音空間の設計図」と呼んでみたり、
音楽は世界を一つにするという思想が、現代は、
多様性によるモナドとなってしまったというあたりの論展開
音楽は社会を作り、社会が音楽を作るといった内容は、
以前、ブログに書いた、カラオケによる音楽消費の話と
近いので、そうだよなーと納得してしまった。
現代の音楽は需要と供給の関係で、
摩訶不思議なヒットチャート(と沼田は思う)ものになるわけだが、
この音楽の状況そのものを「社会」が作り出しているといえる。
以前、ナチスなどによる、音楽による「社会」づくりがある一定の成功を
収めておきながら、それが継続しなかったことは不幸中の幸いであるが、
音楽が感動を生み(それが一つの共有体験となって)社会をコントロールすることがあるとするならば、果たして、音楽とはいかなる存在であるべきか、まさに「語り」あう必要あるわけだ。
もはや、CDで音楽をポータブル化(再生)することから、
MP3も含めた「データ」で再生(再演)されることで、オリジナルの価値と身体性を失った音楽はどこへ向かうのか。
また、無料でダウンロードし、流通することで、
その経済価値を急速に衰退させている音楽が
いかなる方向へ進むのか、
再び、聖なるものへ回帰するか、(偶像崇拝を禁じたように、聖なる音楽が正確に再現されるための楽譜の発達という話はおもしろかったな)
はたまた、分化した音楽への関係性を再統一するのか、
まさに新しい「社会」が、
あたらしい「音楽」を生み出そうとしている。
本書には、初音ミクの話やソナーの話が出てこないが、
そうした話も交えることができれば、さらによかった。
その話がでてくれば、音楽を巡る状況はさらに筆者が思っている以上のさらなる一歩を踏み出していることがわかり、追記されるべき内容がでてくるとおもうのだが。
この人の専門は、音楽社会学なのだろうか?
音楽を理論として、書き綴りながらも、その社会におけるあり方、歴史を記述し、各論文を引用しながら、(この引用が絶妙)音楽について、論じていくあたりは非常にうまい。詩的な言葉を上手に拾っている。音楽と社会の関係については、論文などで読んだことがない沼田としては、この人の論述は非常に興味深く、勉強になった。
音楽と社会の関係を勉強したい人にはお薦めの本。
音楽の聴き方を知りたい、というよりも、音楽とはなんなのか、
を考えたい方が読むべきほんで、
「○○のCDは良いから是非、聞いてみましょう!」
という本ではないから注意。
付録として、音楽理論について知るため本が紹介されているので、
この本で興味を持てばそれを読んでみても良いと思う。
(筆者は、歴史と理論をしり、「自分の内なる図書館」を作らないと、音楽を語ることができないとのべているから、読む必要がやっぱりあるのだろう)
さて、
現代の音楽はその関わりを3つに分業してしまったとし、
「演ずる人」「聴く人」「評論する人」に分類している。
評論するのには、「言葉」(内なる図書館)が必要となり、
その言葉は、直接的、絵画的、身体的に語る事になるだろうというわけだ。これは、名指揮者のリハーサル風景をみてほしいとのこと。
彼は音楽は意味を探るため、他者を捜すためにあると考えており、
意味、つまり、それを語ることは、「わかる」ことであり、分かち合う事につながると考えている。
他にも五線譜は「音空間の設計図」と呼んでみたり、
音楽は世界を一つにするという思想が、現代は、
多様性によるモナドとなってしまったというあたりの論展開
音楽は社会を作り、社会が音楽を作るといった内容は、
以前、ブログに書いた、カラオケによる音楽消費の話と
近いので、そうだよなーと納得してしまった。
現代の音楽は需要と供給の関係で、
摩訶不思議なヒットチャート(と沼田は思う)ものになるわけだが、
この音楽の状況そのものを「社会」が作り出しているといえる。
以前、ナチスなどによる、音楽による「社会」づくりがある一定の成功を
収めておきながら、それが継続しなかったことは不幸中の幸いであるが、
音楽が感動を生み(それが一つの共有体験となって)社会をコントロールすることがあるとするならば、果たして、音楽とはいかなる存在であるべきか、まさに「語り」あう必要あるわけだ。
もはや、CDで音楽をポータブル化(再生)することから、
MP3も含めた「データ」で再生(再演)されることで、オリジナルの価値と身体性を失った音楽はどこへ向かうのか。
また、無料でダウンロードし、流通することで、
その経済価値を急速に衰退させている音楽が
いかなる方向へ進むのか、
再び、聖なるものへ回帰するか、(偶像崇拝を禁じたように、聖なる音楽が正確に再現されるための楽譜の発達という話はおもしろかったな)
はたまた、分化した音楽への関係性を再統一するのか、
まさに新しい「社会」が、
あたらしい「音楽」を生み出そうとしている。
本書には、初音ミクの話やソナーの話が出てこないが、
そうした話も交えることができれば、さらによかった。
その話がでてくれば、音楽を巡る状況はさらに筆者が思っている以上のさらなる一歩を踏み出していることがわかり、追記されるべき内容がでてくるとおもうのだが。
「1Q84 BOOK 1」「「1Q84 BOOK 2」 [読書]
何度も書いているけど、村上春樹が特別好きなわけでもないし、
格別おもしろいと思うわけでもない。
けれども、新刊が販売されると購入することにしている。
沼田が村上春樹を好きでない理由は明確で
「必要以上の性描写」
に尽きる。
彼はこの作品で、この描写を妙にリアルに(もしくは、必要以上に)
特別な行為(もちろん、特別だろうが)として、繰り返し描く。
物語の中に、この性的な部分をどうしてここまで描き混みのかがいまいちわからない。
ふんわりと起こりえないことが当たり前のように語られていくストーリー展開とやけに具体的で
嫌悪感を抱く部分と大きく二つの軸が行ったり来たりしながらものがたりは進む。
主人公たち特有の会話は毎回の作品でも同じだが、
①「わからない」
②「そうかもしれない」
③「やれやれ」
上記の台詞が必ず出てくる。
いつのまにか、非日常の世界に引きづりこまれ、
不思議な物語を納得させされ(もしくは納得することにし)
事件や出来事とに振り回される。
そして、突然物語は終わる。
おもしろくないとは思わないが、
特別おもしろいとも思わない。
「東京忌憚集」が傑作だとおもうのだが。
彼は短編の方がむいているのではないか。
格別おもしろいと思うわけでもない。
けれども、新刊が販売されると購入することにしている。
沼田が村上春樹を好きでない理由は明確で
「必要以上の性描写」
に尽きる。
彼はこの作品で、この描写を妙にリアルに(もしくは、必要以上に)
特別な行為(もちろん、特別だろうが)として、繰り返し描く。
物語の中に、この性的な部分をどうしてここまで描き混みのかがいまいちわからない。
ふんわりと起こりえないことが当たり前のように語られていくストーリー展開とやけに具体的で
嫌悪感を抱く部分と大きく二つの軸が行ったり来たりしながらものがたりは進む。
主人公たち特有の会話は毎回の作品でも同じだが、
①「わからない」
②「そうかもしれない」
③「やれやれ」
上記の台詞が必ず出てくる。
いつのまにか、非日常の世界に引きづりこまれ、
不思議な物語を納得させされ(もしくは納得することにし)
事件や出来事とに振り回される。
そして、突然物語は終わる。
おもしろくないとは思わないが、
特別おもしろいとも思わない。
「東京忌憚集」が傑作だとおもうのだが。
彼は短編の方がむいているのではないか。